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ホーム > 板倉政要と三方一両損
板倉勝重・重宗、父子の京都所司代在職中における施政の大要を記したもの。
民事・刑事法例集(「板倉氏新式目」)と裁判説話集から成り、江戸幕府の法典「公事方御定書」のモデルになった。
裁判説話集には、「聖人公事捌(せいじんくじさばき)」という話があり、これをもとに作られた話が、大岡裁きとして有名な「三方一両損」である。
三方一両損を含む「大岡政談」は、名奉行として評判の高かった大岡忠相(越前守)を主人公として創作された。
実際には、彼が江戸町奉行職にあった間、自身で担当した主な事件は白子屋事件くらいで、有名な天一坊事件ほか殆ど関わっていない。
講釈師や戯作者の手により、大岡政談などから百編近い虚構の逸話が流布。それがまた大岡政談となって講談や落語、歌舞伎に脚色された。
井原西鶴の「本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)」の中の「落とし手あり拾ひ手あり」の話もそうである。
禅僧であったが、父好重と弟定重の戦死により還俗(げんぞく)し、家督を継ぐ。
徳川家康に仕え、駿府・江戸町奉行を経て京都所司代となる。
近江・山城などに1万6千石を領した。享年80歳。
板倉勝重の長男。徳川秀忠の側近として仕え、父のあと京都所司代となる。
35年在職、父と共に名所司代といわれた。
下総関宿藩(しもうさせきやどはん)譜代5万石藩主。享年71歳。
幕臣。書院番から目付、山田奉行、普請奉行などを経て、8代将軍徳川吉宗により南町奉行に登用された。町火消制度の開始、小石川養生所や目安箱の創設をはじめ、商人の仲間・組合を公認するなど、享保の改革を実務で支えた。寺社奉行、奏者番を兼帯し、加増により大名となる。
三河西大平藩(みかわにしおおひらはん)1万石藩主、越前守。享年75歳。
「大工の男」が三両を落とし、「左官の男」が拾って届けた。
しかし大工の男は、落とした時点でそれは俺の金じゃない。
全額を左官の男にやると言った。
だが、左官の男も義理堅かったので、金を貰うわけにはいかない。と言い、二人は口論となった。
この話を聞いた左官の男が住まう「大家」が、おそれながら、と奉行所へ訴えた。
これを受けた「奉行越前守」は次のような裁きを下した。
三両をいったん預かったあと、自らの懐から一両を取り出して四両とし、二人に二両づつ分けたのである。
拾った男は、三両貰えるところだったが二両しかもらえず落とした男も、本来戻ってくるはずだった金より一両少なく奉行も、このお白洲のせいで一両を失った。
これで、「三方一両損」である。
無欲な職人二人の意地の張り合いを、越前守が巧みに裁くという「大岡裁き」である。
この落語の最後の「オチ」が越前は両者に膳を振舞い、その際に「腹も身の内たんと食すなよ」と言い二人はこう答えた。
「へへっ、多かぁ(大岡)食わねぇ、たった一膳(越前)」
お後がよろしいようで。しまい。